逃げろや逃げろ――成田悠輔さんの発言と浅田彰『逃走論』をめぐる考察

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はじめに

イエール大学助教として経済学を教えながら、テレビなど多彩なメディアでも活躍している成田悠輔さん。半熟仮想株式会社のYouTube配信で語られた“教育論”の一端は、いわゆる「社会性」を削ぎ落とし、上昇思考を持たないことがいかに大切かというものでした。

「社会が強制してくる価値観から“逃げる能力”をどう育てるか」「上がり続けることを目標にしないで、その瞬間にしかない“へんてこな時間”をどう楽しむか」。そんな成田さんの言葉は、浅田彰さんが1984年に発表したエッセイ集『逃走論』の世界観と相通じるところがあります。

浅田さんは、初期の代表作『構造と力』に続いて『逃走論』を書き下ろし、その中で近代社会が押しつけてくる“パラノ型”な価値観から“スキゾ型”へ転換しよう、と提案しました。
この記事では、成田さんの対談での発言を入り口に、浅田彰さんの『逃走論』に描かれた「逃げる」という哲学を考えてみたいと思います。


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成田悠輔さんの主張:社会性を削ぎ落とし、上昇思考を捨てる

成田さんは対談の中で、学校や会社、資本市場といった「社会」が求めてくる価値観から離脱する能力を身につけることが大切だと語っています。たとえば、学力で競い合ったり、有名企業への就職を競ったりするレースに自分を巻き込まない。“自分に合わない勝負はしない”という考え方です。

理にかなっていない勝負から離脱する

学校の成績や、お金をどれだけ稼げたか、あるいは有名な企業に入れたか――そうした分かりやすい尺度で評価される競争は、ほんの一部の「得意な人」以外にとってはあまりにも荷が重い。それでもレースに巻き込まれ、無理をして戦い続けてしまうと、心身ともに疲弊してしまいます。だからこそ、そこから「逃げる能力」こそが重要であり、それを教育で育てられないか、というのが成田さんの提案です。

人生100年時代における「上昇思考」の弊害

「上昇し続けること」や「成長し続けること」を目標としてしまうと、体力や気力、能力がピークを過ぎて衰えていく局面で、生きづらさを感じやすくなります。常に“右肩上がり”を想定していると、一度でも下降線をたどると「失敗」や「挫折」と捉えがちだからです。
むしろ、「今の自分が上がっているのか落ちているのか分からないような“変てこな時間”を楽しむ」ことができれば、長い人生をより柔らかく生きられるのではないか——成田さんはそう示唆します。


浅田彰『逃走論』:逃げることのポップな哲学

そんな成田さんの考え方を、40年ほど前にポップに綴ってしまったのが浅田彰さんの『逃走論』です。1984年に発表されたこの本は、当時の雑誌『ブルータス』や『現代思想』といった幅広い媒体に合わせて書かれたエッセイをまとめたもの。タイトルが示すとおり「逃げろや逃げろ」をキーワードに、“住む文明(パラノ型)”から“逃げる文明(スキゾ型)”への大転換を肯定していました。

パラノ型とスキゾ型

『逃走論』では、人間や社会を大きく“パラノ型”と“スキゾ型”に分けて捉えます。

  • パラノ型
    編集的・積分的に、あらゆるものを積み上げて全体の量を増やそうとする。テリトリーを広げて「所有」を蓄積しようとするようなタイプ。
  • スキゾ型
    分裂的・微分的に、その都度その都度の変化に関心を拡散させ、状況次第でどこへでも移動する。積み上げを目指さずに「逃げる」ことを優先するようなタイプ。

パラノ型の人や社会は、一つのゴールに向かって一直線に競争する構図をつくりがちです。たとえば、「少しでも学力を高めて良い学校へ行き、有名企業に入り、他者を追い越すように稼ぎを増やす」。あるいは「とにかく大金を溜めこむ」ことを目指して、さらに上へ上へと目指し続ける。
そんな「追いつけ追い越せ競争」の一本道に疲れ果てたら、「逃げる道もあるんだよ」と選択肢を示してくれるのがスキゾ型的な考え方なのです。

逃走のすすめ

浅田さんは、「行き先なんて知ったことか、とにかく逃げろ」という軽快なフレーズで「逃げる文明」の楽しさを説きます。逃げる先をあれこれ決めてからではなく、ヤバそうならすぐにそこから去ってしまえばいい。偶然のチャンスに敏感になり、その都度生じる変化を面白がる。
これはまさしく「その瞬間の変化を微分的に捉える」行為であり、積分的に「どれだけ積み上げられたか」を見るパラノ型とは対照的。成田さんが言う「上昇ラインを描くような価値観から逃げ出す」姿勢と、浅田さんが説く「逃げろや逃げろ」はどこかで響きあっています。


パラノ型社会と資本主義からの逃走

『逃走論』では、近代社会こそパラノ型の価値観を育んできた大きなシステムだと示唆されます。学校や会社、資本市場が推進する「もっと勉強しろ、もっと働け、もっと消費しろ」といったエンジンは、パラノ型の積み上げ思考と相性が良いのです。
浅田さんは、ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』などを参照しながら、資本主義にまともに対立するイデオロギー(共産主義など)ではなく、資本主義そのものの波を乗りこなしながら内側から少しずつずらしていくという“逃走”の可能性を描きました。

現在の新自由主義的な社会も、生産性や経済性を軸に「稼げる人間になれ」と働きかけてきます。そういった価値観のレースに嫌気がさしたら、また「逃げろや逃げろ」と叫んでみてもいいのではないでしょうか。そこには新しい発想や幸福が、意外な形で生まれてくる可能性があるのです。


教育の役割としての“逃げ方”を教える

成田さんは「社会性を自分の中から削ぎ落としていくことこそ、教育の大事な役割かもしれない」と語りました。
確かに、すべての子供ははじめ“スキゾキッズ”だったと浅田さんは言います。子供たちは本来、あちらへフラフラこちらへフラフラと、欲望や好奇心をさまざまな方向へ拡散させる「スキゾ型」の性質を持っています。ところが学校教育や社会常識の中で“パラノ型”へと矯正されていく――それをもう一度ほぐし、“逃げる能力”を取り戻させるのが教育のミッションになりうる、というわけです。

「どうすれば逃げられるか」を学ぶのは、一見後ろ向きにも思えます。しかし、これは決して“戦わない”ことではありません。むしろ理に合わない戦いを避けるための視点を養う、あるいは未来が不確定な世の中で偶然のチャンスをつかむための感覚を育む、ポジティブでクリエイティブな行為といえるでしょう。


森毅さんと“エエカゲン”の精神

浅田さんの“逃走論的”ポップ・エッセイには、数学者の森毅(もり たけし)さんから継承された「エエカゲン」なノリが通底しています。
森さんは「チャランポランのすすめ」「何でもありや」といったタイトルの著書を残しており、TV番組『タモリの新哲学大王』でも「ゆるく鋭い」哲学的コメントを披露していました。
こうした“あそび”のある姿勢は、まさにスキゾ型の「偶然を楽しむ」精神と通じ合っています。パラノ型社会が押し付ける重苦しさを笑い飛ばすゆとりが、意外なところで豊かな発想をもたらすのかもしれません。


おわりに:パラノからスキゾへ

成田さんが言う「理にかなっていない勝負からの離脱能力」は、浅田さんの『逃走論』で説かれる「パラノからスキゾへ」という転換に重なります。
常に成長し続ける“積み上げ”の人生を目指すほど、下降局面が訪れたときに苦しみは大きくなる。一方、「行き先なんて知ったことか。今はここから逃げるのが一番楽しそうだ」と笑いながら飛び出してしまう自由人には、意外と豊かな未来が待っているかもしれません。

学校や会社、資本市場といった社会システムによって押し付けられるパラノ型の競争と価値観を見直し、「スキゾ型」の自由な感性を取り戻すこと――それは同時に、人生100年時代を身軽に過ごすためのヒントになりそうです。何より“その方がずっと楽しいからに決まっている”のですから。

「一つの尺度に囚われて追いつけ追い越せ競争をしても、理に合わない勝負なら無理してやらなくていい。
行き先なんて後で考えればいいし、いざとなったら逃げる。
そんな“へんてこな時間”を楽しみながら生きていく――
それこそが、この時代の生存戦略かもしれない。」

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